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オペアンプというのがあって、小さなモジュールの中に無限大の増幅度を持ったアンプが入っている。今はこのオペアンプなしには生きていけないほど普及しているのだが、無限大の増幅度というのは事実ではない。実際は何万倍とか何十万倍くらいで頭落ちになる。

その性能は日々進化していて、スルーレイト6000ヴォルトなどと言われると気が遠くなる。過去を振り返って自分が情けなくなり、今の時代に生まれりゃよかったと思わずにいられない。

しかし進化は無限でも、オペアンプが無限大の増幅度を持つことは決してない。結局はアインスタインやポアンカレに頭を押さえられるのだ。

理想というのもそれに似ている。スクエアグリップは理想的だが見果てぬ夢だし、ハンバーガーグリップも理想的だが人間の体では実現できない。どちらも出来るだけ理想に近づける標識であって、理想そのものは実在しない。

そしてどちらの理想が好ましいかという話だけが残る。理想が二つあっては困るという人が出てくるからだ。

1着は一頭でいい。1着同着はあり得ないと言う人がいる。確かにもっと細かく見ればどちらかが先にゴールを通過しているだろうが、鼻差は見えても鼻毛の差は見えないし、もっと細かく見ていけばやっぱり無限小の彼方にぼんやりしてしまう。その果てにあるのはボーアやディラックの世界で、どっちが先かは確率で決めるしかない。

そもそもスクエアグリップがゴルファーの精神力に無理をさせて理想を追求するのに対して、ハンバーガーグリップはゴルファーの体力に無理をさせて同じ目的を遂げようとするのだから、精神主義者はスクエアグリップを好む。そして私のような肉体派は断然ハンバーガーグリップだ。

ハンバーガーグリップは原始的に自然なグリップで、それは子供や初心者が自然に握るとそうなるところからもわかる。進化という点では原始的なものがいいとは言えないし、実際上手な人のグリップは長年の自然な進歩によってある決まった方向に同じように変化する。

その変化を進化と言うのは自然だし、それを先取りして初めからそのまねをするのは間違いではない。そういう歴史の蓄積なくして進化はないのだから。

しかしながら、中学で「集合」をやったり「証明」をやったりするものだから数学から脱落する子供が増えるのも事実だ。

馬鹿な数学者が、というか頭の良すぎる数学者が、数学を愛する余りに、数学と算数の区別を忘れて勇み足をしたか、あるいは区別を知らないか、または昔の文部省が世間一般の知能レヴェルを高く見積もり過ぎて13才から数学にしたのが悪い。

森先生じゃないけれど、算数というのは数の歴史を辿(たど)る旅である。数学というのはその旅から戻った人々の回想録である。まだ旅の途中にいる人が、旅から戻ってきた人々の回想録を読んでも何のことかわからない。

個体発生は系統発生を繰り返す、と言う。人が母から生まれるとき、それは小さな細胞から進化するが、途中で魚の形になり鳥の形になり、最後に人間になって生まれる。これが個体発生だ。

人間は歴史上小さな有機物から進化したが、その過程もやはり最後の方で魚になり鳥になり、最後に人間に進化した。何万年という時間の中の、人間の歴史的進化と全く同じことが、一人の人間が生まれる過程で再現される、驚くべき話だ。

算数は人間が辿ってきた数の歴史を一人一人の子供の心の中で追体験することである。一方、数学は数の歴史全体を見渡して、その個々の美しい風景を、海と山、星と花、人と動物のように分類したものだ。

一つの分類が行われると、例えば動物はこの世にこれだけなのだろうかという疑念が沸き上がる。それを確かめに旅に出る者が出てくる。

また例えば、分類の仕方に異議を唱える者が出てくれば、どういう分類が正しいかを証明しなければならなくなり、そういう方面へ旅立つ者が出る、といった具合だ。

デデキントは確かに偉大である。数学を哲学に重きを置いてみれば、多分かの有名にして偉大なオイラーよりももっと偉大な数学者だろう。しかしだからといって13歳の普通の子供たちに彼の偉大さを伝えることは不合理ではないだろうか。

彼等はまだ楽しい旅の途中にいる。見る物聞くものがみんな珍しくって、時々戸惑うこともあるが、それでも元気に旅を続けているのだ。

もしかすると、数学教育というのは一般的にはただ旅だけでいいのではないだろうか。回想録を書きたい子供は旅から帰って自ら書き始めるだろうし、その周りには楽しかった旅を懐かしむ友達がいる。

苦しく無惨だった旅を忘れたがる友達の中にいるよりもずっとすてきな環境で、彼等は回想録を書き続けるだろう。

ハンバーガーグリップは自然な旅である。そこにいきなりスクエアグリップを持ち出すことに意味があるのは限られたわずかな人たちだけだろう。それよりはその旅から帰ってくるのを待った方がいいのではないだろうか。

帰って来たとき、自然にスクエアグリップに近づいている人もあるだろうし、あるいは、旅を続けてきたからこそスクエアグリップの本当の価値がわかるようになってくるのかも知れないのだ。

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