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練習していて、たまにボールがとんでもないところに飛ぶことがある。知ったかぶりの先生が、「ほらそのミスが無くならないとスコアになりませんよ」と言う。馬鹿言っちゃいけない。ゴルフというのはそういうもんじゃないんだ。つくづく日本人の頭はゴルフに向かないと思う。

ホールインワンの確率は必ずしも上級者ほど高いわけではない。プロにはホールインワンの経験者が多いだろうが、それは腕前と言うよりラウンドの量によっている。これに対してニヤピン賞は、確実に上級者ほど多く手に入れる。ニヤピンが多ければ当然ホールインワンの確率も上がると信じるのは言わば知的な落とし穴である。実際ステディなプロとは別に劇的なプロが存在するという事実は否定できない。

部屋の壁にダーツの丸い的がつるしてある。ど真ん中めがけて矢を投げる。何回か投げるうち矢が的の外の壁に刺さってしまった。「あっ、やばい」と思う。壁を傷つけるのはまずいから、それだけは避けようとする。私は日本人なのだ。この瞬間、我々はある種の望みを絶たれる。

それから先は、ど真ん中を狙うという目標に加えて、壁には当たらないように、という条件が加わる。どうせ真ん中を狙うのだから、つまりは壁に当てないように注意することに通じるのだから、結局同じだと考えるのは大間違いで、壁には絶対行かないように真ん中を狙うのと、ただ真ん中を狙うのとは、天地ほど違う。

同様にグリーンを外さないように注意しながらピンを狙うのと、ただピンを狙うのとは、全く違う。一方はグリーンを絶対に外さない打ち方という制限の中でピンに近づけようとする。他方はピンに当たるかさもなければどこに飛んでもいっこう構わないのだ。

段々近づけるとか、限りなく近づけるという微積分思考が日本人の頭には強くある。いきなりポン、という確率的思考は「ばくち」でよろしくないと思っている。しかしアカプルコだかモンテカルロだか忘れたが、そういう方法があって2次方程式だって確率で解けることを知らない。

ダーツの矢を沢山束ねて、的に向かって一気に投げると、矢のどれかはど真ん中を射抜くだろう。しかし同じ数の矢を一本ずつ投げていてはど真ん中に当たるかどうか不安だ。

それはどういうことかというと、一つ投げて右にそれれば今度は少し左を狙い、下に外せば今度は少し上を狙う、ということを繰り返す果てのど真ん中より、毎回ど真ん中とだけ思って投げ続ける方が早くど真ん中に当たるという、納得しがたい事実がある、ということだ。

確率や対数には不思議がある。学校で習う数学は解析が主で、確率や対数はおまけだから知らないことが多い。普通には信じられないことが、しかし本当だということを、確率も対数も持っている。相撲で3人による優勝決定戦は最初に戦う二人の方が残りの一人より勝つ確率が高い。

あらゆる統計の数値の最初の桁はほとんど1と2だという印象があるが、事実半分は1から3までと決められている。そんな馬鹿なと思われるかも知れないが、それらは必然であって偶然ではない。しかし真理というよりは、そうなるように数学が作られた、と言ったほうがいいだろう。数学が正しいかどうかは問題ではない、ただしばしば非常に便利なことは確かだ。

3を3回足すと9になってほぼ10だから、長さ10の棒を均等に3つに折れば一つは大体3だというのは誰でも知っているが、3掛ける3も9でほぼ10だから、長さ10の棒を真ん中で割ると、その一つは3だということはあまり知られていない。

つまり長さ10の棒の半分は5でなくて3だということになる。10の半分が3だから統計の頭の数字は3までで半分を占めてしまう。

2を5回足すと10になるが、2を3回掛けると8になってまあ10に近いので、長さ10の棒を3つに割るとその一つは2ちょっとだ。それで統計の頭の数字の3割ちょっとは1か2になってしまう。

最近ロトという宝くじが売られるようで、かなりの数字の中から何個か選べと言われて、面倒だから123456…と言ったら、「そんなのは絶対出ない」という。123456…が絶対出ないのであれば、他のどんな数字の組みも絶対出ない。そんなことはわかっている人でも、そんな買い方はあまりやらない。これはもはや確率論でなく心理学の話だ。

宝くじは西銀座で買うという人に理由を聞いたら、「あそこで必ず当たりが出る」のだそうだ。100本のくじの99本が西銀座で売られて、残りの1本がどこか別のところで売られるという風ならば、当たりが1本だとすれば99パーセントの確率で西銀座で当たりが出る。

西銀座で当たりが出るのはいいが、くじ自体の確率は同じだからどこで買っても同じだということがどうにもわからないらしい。これは心理学より確率のお勉強がいるだろう。

ゴルフにしても、極限値方式で限りなくホールに近づけるという練習をすると安全にスコアは上がってくるが、18ホールの全てをパーオンしても勝てないのがゴルフだ。なぜか。150メートル先のグリーンへ100パーセント乗せる練習は出来るが、100パーセントホールインワンさせる練習は出来ない。これが解析思考の限界で、その点確率なら限界はない。

100人対100人が戦う団体戦の勝敗と、その試合の個人戦のトップ賞とでは、性格が違う。後先構わずピンデッドに狙い続ける、という練習をしてきた100人と、安全にパーオンする努力を積み重ねた100人と、団体戦の勝敗は明らかだが、トップ賞の方はわからない。

100人いれば一人くらい馬鹿当たりするのがいる。プロゴルファーが1000人いれば、一番馬鹿当たりしたのが勝つ。馬鹿当たりが一人もいない場合を除いて、どれだけ馬鹿当たりするかが勝敗を分けるのであって、安全ゴルフでは勝てない。年に何勝もあげるプロは他のプロとはレヴェルが違うから勝てるのだが、それでも全部は勝てないところに極限値方式の弱みがある。

馬鹿当たりには確率ゴルフがいい。ゴルフで確率というと、すぐねらい所がどうの安全がどうのと、後ろ向きの守りの確率を言うが、そういうのは確率と言わず確実と言ってもらいたい。そもそも確実がないから確率と言うのだ、馬鹿野郎。

確率的練習はどうやるのか。狙いはどこでもかまわない。ボールを打つときただ「そこへ行け」と念じて打つ。思い通りになったら「やった」と思おう。外れたら「駄目だった」とだけ思おう。このとき近くに外れた場合と遠くに外れた場合と二通り起こるが、遠くに外れた方を良しとしよう。ここが解析的練習と違う点だ。

 
なぜなら遠くに外れれば外れるだけ次の一打がピンデッドにくる確率が上がる、と考える。初級ゴルファーは信じられない素晴らしいティーショットの後に必ずサンドウェッジでざっくりやることになっているし、上級者はティーショットをチョロした後にスプーンでシャカリキに打ったらオンする。これがゴルフだ。これが確率なのだ。

同じ実力を持っているならば、セカンドショットでグリーンに14回乗せるか、それとも13回外して残りの1回がピンデッドか、選択できるということだ。コロガショットがロングパットと変わらぬほど上手ならの話だが、この場合後者が一打勝つ。したがって外す時は目一杯外した方が得ということになる。

確率は不思議だ。しかし解析は無限を処理するけれども、確率は何も処理せずどこまでも自然体だ。

8番ホールまで40だったとか、17番を終えた時点で83だったと説明するゴルファーの口から次に出るセリフは決まっている。「最後に11回たたいた。」 ハーフなら51だしラウンドなら94になる。これがゴルフの確率だ。ハンディキャップという統計学は確率と親しい。そしてそのハンディを減らすのもまた確率的練習というのは理にかなっている。

そういう意味でゴルフの解析は過去を見つめているだけで未来を作るに至っていないように思える。経済学者の本よりバクチ打ちの本にこそ生きた経済の真理があるのは理の当然だが、見えない明日に全人生を賭ける者と、昨日の謎に挑む者と、自ずと道は違った形をしているだろう。

どちらがいいとは言えない。ちなみにジョン・メイナード・ケインズは、経済学者というよりバクチ打ちだったらしい。

こうして目標にボールを運ぶ一番の練習法は、ただ目標を狙って打つことだという至極当たり前の話が終わる。ゴルフ談義で一番よく聞く言葉は「惜しかった」だが、今話してきたように「惜しい」という言葉はゴルフでは最悪の結果を意味している。「惜し」くなければもっとスコアは良かった。

惜しいことが多ければ多いほどスコアは悪い。それは確率を小出しにしてしまって無駄が多かったからだ。

「惜しい」ことが全然なかった日のスコアがベストスコアというのは皮肉ではない。しかしそれは何もかもうまく行ったから「惜しい」ことが無かったわけではない。確率の無駄遣い、あるいは実力の無駄遣いがなかったということだ。

実際「惜しい」ことがなかった日のラウンドはスコアがいい割につまらなかった感じがするもので、何もかもうまく行った上で「惜しい」ことがなかったらもっと楽しいはずだが、そんな日はほとんどやってこない。ゴルファーはひたすら「惜しい」ことのないようにラウンドするだけだ。

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