« 0111 パターのトルク恐るべし | トップページ | 0113 ラウンドのためだけのクラブバランス調整 »

右手の人差し指はゴルフグリップにとって常に邪魔者で、しかしそれは人間の本性に属するから、やむを得ない。盲腸みたいなもんだ。人差し指がグリップにかかると、歪みが生じる。力を入れたときと入れないときで、フェイスの向きを変えてしまう。

アイアンでも、たとえば右手の人差し指と中指の間にシャフトを挟めば、人差し指のいたずらは防げるが、それでは打てない。パターではそのストロークに力を要しないから、正確に打とうとすれば誰でも人差し指のいたずらを封じ込めるような握り方をし始める。クロウグリップでも何でも、全ては同じ理屈だ。

これは自然の成り行きであって、流行ではない。そもそも今までの方がおかしかったのだが、一般の人は「自然」という基準を、「普通に握る」という意味での「自然」から、「より正確に打つ」という意味での「自然」に乗り換えるために時間がかかる。このタイムラグで、常識と良識が戦う。

パターの場合、普通のグリップが不自然だという証拠が出にくい。それ以前に様々な歪みがあるので、何が原因か特定できないから、グリップは普通の「自然」な握りから進化ない。ところが、前向きパットにはほとんど歪みがないので、ミスをすればすぐさま責任の所在が明るみに出てしまう。

私が、横向きのパットスタイルではリヴァースグリップが主流になると言い続けているわけは、リヴァースグリップは左手で引っ張るので、人差し指のいたずらがないからだ。同じように、もしもどうしても普通のグリップでやりたい場合には、右手は今までの「自然」をやめて、人差し指と中指の間にシャフトを挟む「自然」に変えれば、より正確なストロークになる。

これで今までよりパット数が減らなければ、原因は別のところにある。ただし、パット数は正確に数えなければならない。打ちにくいからといって、パット数が増えていると思いこんだのでは、実験にならない。科学の唯一の審判は実験であり、それ以外の何者にも、神にさえ、審判の資格はない。

別の原因はただ一つで、それはたとえばある投手の場合、直球とカーヴのコントロールが、必ずしも直球の方に分(ぶ)があるとは限らないような場合だけだ。普通は直球のコントロールの方がいいだろう。しかし練習によってはカーヴの方が直球よりも正確にコントロールできる投手は少なくない。

自由が利くということは、一面有利だが反面不利にもなる。私の言う正確さは、とっさの自由が利かないようにすることでスタビリティを高めるやり方だから、その反射神経と感覚だけでパットをするゴルファーには、何らの効果も期待できない。

リヴァースグリップではとても打ちにくいと感じるゴルファーがいたとする。パットをクラブヘッドのトルクを感じながら振り、最後の最後ボールを打つ瞬間に手首の感覚でアジャストして打つタイプは人差し指がものをいう。だから到底リヴァースグリップでは打てないだろう。

とっさの加減でいいパットが出来るならば、そのままがいい。わざわざマニュアルからオートマチックに代えることはない。しかしマニュアルがうまく使えないならオートマがいい、そういう話だ。

ヨーロッパのプロゴルファーのスイングはマニュアルが多く、オートマで済むところは出来るだけオートマで、という考え方はやはりアメリカのプロゴルファーに多い。車と同じだ。

現代の日本人はアメリカを先進国と思っている。ドイツやイギリスが先進国だと思っていた時代もあった。日本の乗用車がほとんどオートマになって、ギア付きの乗用車は商用車以外、探しても滅多に見なくなったある日、それが当たり前だとみな信じていた。

ところが当時オーストラリアで車を借りると大抵ギア付きだった。安いのを借りるからだと思っていたが、テニスクラブのオーナーが所有する何台もの乗用車がみなマニュアルだったので聞いてみると、ヨーロッパの乗用車はマニュアルだそうだ。

日本でオートマが圧倒的になったとき、それを私たちは当たり前だと思っていただろう。進歩だと思っていただろう。ところが当時ヨーロッパの乗用車の60パーセントはマニュアル車だった。アメリカに遅れていたのではない。車を走らせるのが好きだったのだ。

今はどうか知らないけれど、アメリカしか目に入らない日本社会のリーダーたちの生き方やり方に疑問を持たない日本人は、アメリカ以外の世界にもっと別の、違った形の進化や生活があることを全く知らない。

そういう私たちの知らない社会の方が、よほど日本人の心情に合った生き方をしている。このままアメリカと共に走れば、日本が日本でなくなってしまうだろう。それより日本自体がなくなるかも知れない。

アメリカがいい悪いではない。日本らしくない、ということだ。そしてアメリカ流の生き方が人々の生活の進歩ではないということが、そろそろ明らかになる、そういう時代になってきた。

ヨーロッパ旅行が流行ってくれたおかげで、多くの日本人が出かけているらしい。たぶんそれは日本人の世界観を幾らかでも変えるのに役立つだろう。この頃日本のテレヴィでは「ものを大事にしましょう」というお念仏が唱えられている。

一方でまだ見えるテレヴィを捨ててデジタルへの買い換えを迫っている。「ものを大事にする」という文化は日本人の根本原理だが、誰一人として、それの「なぜか?」を語らない。知らないんだ。

お念仏には意味があって、「ものを大事にする」というのは、人間が生まれて初めて「愛」に出会うことに他ならない。それはつまり、人間になりかかることでもある。だから大事なのだ。「物」を愛することは、その先のもっとややこしい、「人」を愛するための第一歩だ。

これ以上の、「愛」を見つける素朴で確かな方法はない。ものを大事にする文化のないアメリカ人が「愛」を見つけるのは、だから非常に困難で大変な作業なのだ。

アメリカ風な生き方をマネてきた今の日本人もきっと同じだ。ものを大事にしなくなったから。アメリカではだから「愛」の映画が発展し、キリスト教が十分な力を持って生き残っている。

それでも私たちが持っている、あるいはかつて持っていた「愛」には遠く及ばない。ヨーロッパには日本人と同じ心情を持った国が幾つかある。不思議なことにアジアにはない。アジアの「愛」はイスラムに同化する形で消えてしまった。

しかし日本人の「愛」はまだ残っている。筆者

« 0111 パターのトルク恐るべし | トップページ | 0113 ラウンドのためだけのクラブバランス調整 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 0111 パターのトルク恐るべし | トップページ | 0113 ラウンドのためだけのクラブバランス調整 »