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私はバクチは嫌いだが、麻雀も競馬も大好きだ。私にとってはお金をかけないで麻雀をしても、お金をかけても、麻雀のおもしろさは変わらない。ただ、賭事が嫌いなのでお金を賭けてまで麻雀はやらない。

 
しかし世の中にはそれを理解しない人種が存在する。むしろそういう人種の方が多勢だろう。賭けなければおもしろくない、と言うのだ。賭けなければ真剣になったときの迫力というか、興奮がないということだろう。この人種は、一体どんな頭脳構造を持っているのか。

 
ある時、ゴルフ場でちょっと賭けようかという話が出たとき、私はみなさんがそれで楽しめれば構わないが、賭けなくてもゴルフは楽しい、と言ったことがある。

 
不思議そうな顔をされたので、私はさらに言った。「私はいつでも自分という人間の尊厳を賭けてゴルフをしている。みなさんも自分の尊厳を賭けてみたらいかがでしょうか」と。そう言ったらもっと不思議がられた。

 
私の麻雀は賭けても賭けなくても全く同じ真剣さである。賭けるか賭けないかで打つ手に差は出ない。賭けていないからこれでいいとか、賭けているからこうしようとか、そういうことは起こらない。いつでも一番正しい手は一つしかないと思うからだ。

結果が先にある賭はない。したがって結果から予想の誤りを指摘することは無意味であり、いかなる結果であれ、結果が出る前の全ての状況から出される正解は一つあるか、または複数あるかだ。複数ある場合は勝負は出来ない。それは賭だからだ。

そこでふと思ったのは、馬券の買い方だ。私は勝つと思う馬の馬券を100円買う。100円買うのと百万円買うのとで勝つ馬の予想に違いが起こるはずがない。馬が私の窮状を察してくれない限り、掛け金の大小で勝ち馬が入れ代わるはずはない。

ところがそういう買い方をする人が存在する。つまり、本当の意味で勝ち馬予想をしないから、バクチになるのだ。むろん私にも勝ち馬はわからないが、勝つと思う馬はわかるときがある。それが予想である。馬券を買うかどうかは問題ではない。配当も問題ではない。

 
予想が当たるかどうかだけが問題なのだ。当たれば儲かるから当てようとするのではない。馬券を買わずとも当たればうれしい。自分の予想能力に自分の尊厳を賭けているからだ。儲けたいために賭をする人は、きっと人生の全てを僥倖(ぎょうこう)に頼るのだろう。

何をするにしても、言うにしても、自分の人間としてのプライドがかかっている。だからいつでも真剣である。この真剣勝負の楽しさを、わざわざお金という媒介と通して媒介変数表示させる必要を、私は感じたことはない。

 
車の修理代と両親の法事の費用は、お金に換算すれば比較できるが、それは私にとって非常に不思議だ。ビルの屋上から重さ50キロの鉄骨が落ちてきて通行人がケガをする。1万円の鉄骨だ。

 
同様に50キロの金の延べ棒が落ちてきて、やはり通行人がケガをする。こちらは約1億円が落ちてきたと考えた場合、けが人の治療代と保障費用に差は出るだろうかと、考える人がいるだろうか。

価値とはそんなもんだ。何か同じ土俵で比較できるものに換算するという作業は、余程慎重に考えないと道を誤り、恐ろしいことをしている場合もある。

 
お金を賭けた方が早くゴルフが上手になる人が世の中の大多数かもしれないが、暴力団じゃあるまいし、お金に代えられないものの存在が見えない人ばかりでもないと思う。ここが人生、考えどころだ。ゴルフは賭よりおもしろい。筆者

長い人生ずっと餓死する不安と戦いながら生きている貧しい私だからこういう考え方になるのだろうか。そうするとこういう考え方は正しくないはずだ。何しろ不健全というか、恐怖が生み出した思想なんだから。うーん、筆者。

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